南部氏による青森・岩手周辺の松利権支配と九曜紋
「岩手県北部と青森県の太平洋岸に、丸い輪っかが幾つか置かれた夢を見た。○は輪であり和邇氏に繋がる松取りの縄張り。一戸~九戸の地名の起源であり、奥州南部氏が支配していた。それは、南部氏の家紋の南部鶴の中の九曜紋に繋がり、和仁氏と同様に松取りの専門部隊であることが示唆される。」
6月29日、朝起きがけに夢を見ました。東北地方の岩手県から青森県の八戸市辺りの太平洋岸に、丸い輪っかが幾つか置かれているような感じでした。何だろうと内観すると、八戸に代表する○戸の地名ではないかと思いました。○の印は、和邇氏、和仁氏などのワークから松取り(松果体収穫)の縄張りを意味することが分かっていました。

○印は、禅宗の「円相」や島津氏の丸十の家紋などにも使われていますが、「囲って自分のものにする」というエゴの闇を現しています。何故、八戸のように○戸の地名がついたのかをネットで調べていきました。八戸市は、青森県東部に位置し、太平洋に面する市です。中核市に指定されており、青森市や弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成し、八戸都市圏は約33万人の人口を擁しています。
「八戸」の名称は、岩手県北・青森県南西部一帯に古くから存在している数に「戸」のつく地名がもととなっています。「戸」自体の由来は牧場の番号や駐屯地の番号など諸説あります。「糠部郡(ぬかのぶぐん)」に関係していました。糠部郡とは、かつて陸奥国にあった郡で、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていました。延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせ)の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、平賀郡、田舎郡、鼻和郡が建郡されました。
延久蝦夷合戦は平安時代、前九年の役(1051年-1062年)と後三年の役(1083年-1087年)の間で陸奥国を主な舞台に起こされた戦役で、延久二年合戦、延久合戦とも言います。1070年(延久2年)に、陸奥守源頼俊が清原貞衡と共に兵を率い蝦夷を攻略したとされる戦いです。前九年の役、後三年の役、延久蝦夷合戦は、いずれも松取りのための戦いだったと感じています。特に延久蝦夷合戦は、先住民の蝦夷の松を取ることをでした。
出羽清原氏や奥州安倍氏は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれる朝廷に従った蝦夷であり、地元の蝦夷を束ねていた長でした。朝廷の配下で蝦夷の人たちの松取りを行っていた現場監督だったのです。前九年の役で奥州安倍氏が滅び、後三年の役で安倍氏の地位を受継いだ出羽清原氏が滅びました。これは実質的な松利権の支配者の変化を意味します。このように、岩手県、青森県一帯は古くから先住民の蝦夷の松取り場所となっていました。
1189年(文治5年)、藤原泰衡が滅びると奥州は源頼朝の支配下に入り、関東御家人への恩給が行われました。1334年(元弘4年/建武元年)、陸奧国府の北畠顕家は南部師行に対して信濃前司入道(二階堂行珍)の代官を久慈郡に入部させよと命じており、平泉藤原氏の時期から、現在の久慈市域(九戸郡の一部)とほぼ一致する郡域が古代閉伊郡から分離独立したものとみられます。
その結果、鎌倉末期には糠部、岩手、久慈、津軽四郡など北条氏所領群の一角をなしていたと推定されます。糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制が敷かれていました。糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われます。一説には南部氏の領地になった順番とも言われます。
他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を指すとする説もあります。「戸」とは「牧場」の意であるとも言われます。戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと「吾妻鏡」にあります。
私は、この戸制は、馬の産地である「牧場」だと見ています。古くから馬は、松取りと深く関わりがあります。農耕馬や軍馬にもなる馬は、松取りも行われていました。それ故に、人間にとって馬はとても有用な動物でした。四戸を除き、一戸から九戸は現在でも地名として現存し、一戸町、二戸市、九戸村が岩手県に立地し、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市は青森県に立地しています。
戸制は、実質的に領地を任された南部氏によって支配されていました。奥州南部氏の始祖である南部光行の子供が一戸から九戸の松取りの縄張りを領有して来ました。行朝=一戸氏の祖、実光=三戸南部氏(宗家)の祖、実長=根城南部氏・波木井氏・(伊勢南部氏?)の祖、朝清=七戸・久慈氏の祖、宗朝 四戸氏の祖、行連 九戸氏の祖です。南部氏の家紋は、南部鶴です。
○の中に羽を広げた2羽の鶴が向かいあって2つの九曜紋が記されています。九曜紋は、中央に大きな○があり、その周囲に小さな○を8個あしらった図案です。実は、この九曜紋が奥州南部氏の一戸から九戸の○を意味すると感じます。《日本航空のロゴ・鶴丸と同じ肥後国・和仁氏の家紋・鶴の丸》にありますが、家紋の鶴は、JALのマークと同じ鶴丸である古代和邇氏の子孫である「和仁氏」と繋がります。
「鶴(つる)」は、「剣(つるぎ)」という裏の意図があるとも感じます。和邇氏や和仁氏は、松取りの工作部隊だったと分かっています。東北地方の岩手県北部と青森県の八戸市辺りの太平洋岸に、丸の輪っかが幾つか置かれていた夢は、この地が馬の産地で松取り場所であったこと、この地を支配した南部氏が松取り専門部隊で、一戸から九戸まで馬の牧場から松取りの縄張りと成って来たことで、九曜紋に繋がったことを示唆したものだ感じます。(つづく)
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6月29日、朝起きがけに夢を見ました。東北地方の岩手県から青森県の八戸市辺りの太平洋岸に、丸い輪っかが幾つか置かれているような感じでした。何だろうと内観すると、八戸に代表する○戸の地名ではないかと思いました。○の印は、和邇氏、和仁氏などのワークから松取り(松果体収穫)の縄張りを意味することが分かっていました。

○印は、禅宗の「円相」や島津氏の丸十の家紋などにも使われていますが、「囲って自分のものにする」というエゴの闇を現しています。何故、八戸のように○戸の地名がついたのかをネットで調べていきました。八戸市は、青森県東部に位置し、太平洋に面する市です。中核市に指定されており、青森市や弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成し、八戸都市圏は約33万人の人口を擁しています。
「八戸」の名称は、岩手県北・青森県南西部一帯に古くから存在している数に「戸」のつく地名がもととなっています。「戸」自体の由来は牧場の番号や駐屯地の番号など諸説あります。「糠部郡(ぬかのぶぐん)」に関係していました。糠部郡とは、かつて陸奥国にあった郡で、現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていました。延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせ)の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、平賀郡、田舎郡、鼻和郡が建郡されました。
延久蝦夷合戦は平安時代、前九年の役(1051年-1062年)と後三年の役(1083年-1087年)の間で陸奥国を主な舞台に起こされた戦役で、延久二年合戦、延久合戦とも言います。1070年(延久2年)に、陸奥守源頼俊が清原貞衡と共に兵を率い蝦夷を攻略したとされる戦いです。前九年の役、後三年の役、延久蝦夷合戦は、いずれも松取りのための戦いだったと感じています。特に延久蝦夷合戦は、先住民の蝦夷の松を取ることをでした。
出羽清原氏や奥州安倍氏は、俘囚(ふしゅう)と呼ばれる朝廷に従った蝦夷であり、地元の蝦夷を束ねていた長でした。朝廷の配下で蝦夷の人たちの松取りを行っていた現場監督だったのです。前九年の役で奥州安倍氏が滅び、後三年の役で安倍氏の地位を受継いだ出羽清原氏が滅びました。これは実質的な松利権の支配者の変化を意味します。このように、岩手県、青森県一帯は古くから先住民の蝦夷の松取り場所となっていました。
1189年(文治5年)、藤原泰衡が滅びると奥州は源頼朝の支配下に入り、関東御家人への恩給が行われました。1334年(元弘4年/建武元年)、陸奧国府の北畠顕家は南部師行に対して信濃前司入道(二階堂行珍)の代官を久慈郡に入部させよと命じており、平泉藤原氏の時期から、現在の久慈市域(九戸郡の一部)とほぼ一致する郡域が古代閉伊郡から分離独立したものとみられます。
その結果、鎌倉末期には糠部、岩手、久慈、津軽四郡など北条氏所領群の一角をなしていたと推定されます。糠部郡には、「九ヵ部四門の制(くかのぶしかどのせい)」の制が敷かれていました。糠部郡を一から九までの「戸」(あるいは部)にわけ、一戸ごとに七ヶ村を所属させ、余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われます。一説には南部氏の領地になった順番とも言われます。
他に、南門が一戸・二戸、西門が三戸・四戸・五戸、北門が六戸・七戸、東門が八戸・九戸を指すとする説もあります。「戸」とは「牧場」の意であるとも言われます。戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと「吾妻鏡」にあります。
私は、この戸制は、馬の産地である「牧場」だと見ています。古くから馬は、松取りと深く関わりがあります。農耕馬や軍馬にもなる馬は、松取りも行われていました。それ故に、人間にとって馬はとても有用な動物でした。四戸を除き、一戸から九戸は現在でも地名として現存し、一戸町、二戸市、九戸村が岩手県に立地し、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市は青森県に立地しています。
戸制は、実質的に領地を任された南部氏によって支配されていました。奥州南部氏の始祖である南部光行の子供が一戸から九戸の松取りの縄張りを領有して来ました。行朝=一戸氏の祖、実光=三戸南部氏(宗家)の祖、実長=根城南部氏・波木井氏・(伊勢南部氏?)の祖、朝清=七戸・久慈氏の祖、宗朝 四戸氏の祖、行連 九戸氏の祖です。南部氏の家紋は、南部鶴です。
○の中に羽を広げた2羽の鶴が向かいあって2つの九曜紋が記されています。九曜紋は、中央に大きな○があり、その周囲に小さな○を8個あしらった図案です。実は、この九曜紋が奥州南部氏の一戸から九戸の○を意味すると感じます。《日本航空のロゴ・鶴丸と同じ肥後国・和仁氏の家紋・鶴の丸》にありますが、家紋の鶴は、JALのマークと同じ鶴丸である古代和邇氏の子孫である「和仁氏」と繋がります。
「鶴(つる)」は、「剣(つるぎ)」という裏の意図があるとも感じます。和邇氏や和仁氏は、松取りの工作部隊だったと分かっています。東北地方の岩手県北部と青森県の八戸市辺りの太平洋岸に、丸の輪っかが幾つか置かれていた夢は、この地が馬の産地で松取り場所であったこと、この地を支配した南部氏が松取り専門部隊で、一戸から九戸まで馬の牧場から松取りの縄張りと成って来たことで、九曜紋に繋がったことを示唆したものだ感じます。(つづく)
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